「まよなかゲーム夜話」/第一回・porologue×sagipenta「クロノ・クロス」

クロノクロスクリアを機に、職業ゲームプランナーのsagipenta氏と話しました。

参加:porologue,sagipenta 編集:porologue

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sagipenta:じゃあ、そろそろクロスの感想を聞こうかな。

porologue:クロノ・クロスかー。ぼく土台がないと語れない系男子なので、もうしわけないんだけどちょっとクロノクロスに関するシゲキ'sインプレッションを聞かせてもらえますか。いろいろと話したいことはあるんだけどまとまらなくて。

sagipenta: しげき、しゃべります。俺の中では思想的に最高に充実したゲームなんだよね。何か思考を掘り下げて語りかけるではなく、滔々と湧きでる加藤さんのイマジネーションをただただ受け止めるだけのテクスと群やカットを眺めて、こちらの方で意味を補足したりする。なんか言ってることはよく分からないし、整合性も悉く破棄されて、99%は夢の中にあるような状態。今ドラマで「プリズナーNO.6」ってやってるけど、ああいう夢の中のような浮遊感の中で五感の絶頂を楽しむ感じだなー。思想的とは言えないかもしれない。前後矛盾するけれど。

porologue: 思想的といった面では、意味としてはあってると思う。「失われた未来からの復讐」みたいな、平行世界の存在を大切なものとして描いて、SF小説的なテーマを取り扱ってるよね。統一感を欠かす、というのはとても感じた。意味深なことをちりばめたりしてたり。こういうのはやりかたによっては有効だと思うんだけど、残念ながらクロノクロスに関してはそれが悪い方向に作用してたと思う。あくまで個人的な印象だけど、テクストやカットもそこまで斬新な切り方とは思えなくて、ただただ断片化されているな、という

sagipenta: 悪い方っていうと?

porologue: 個人的な考えとして、意味深な言葉がゲーム内容に伏線としてあまりにも寄与しないのがちょっと違和感があった。例えば「炎」の部分のニーチェのもじりも、逆になんか安っぽく感じてしまった。意味深な部分とは対照的に、例えば以前に君が言ってたヒドラ関係の話とか、あれひとつでも意味のある内容として深められる(というか、最終的なテーマはそこに帰着するんだと思ってた)はずなんだけど、そこまで突き抜けないというか、ぶつ切りになってしまってたのがとても残念な気がする。

sagipenta: 伏線と回収がゼロサムにはならないよね。エンターテインメントとしてツメが甘いという点には確かに同意せざるを得ない。はてしない物語みたいに「だけどこれは別の物語だから、いつか語ることにしよう」っていう形である程度伏線を潰しながらいけたらよかったのかもね。ただ、「夢」っていう隠し主題に固執する限りにおいて、身体の浮遊感については未だゲームとして追究を加えたいところが残っていると思ってる。光田康典の音楽は(環境音だけのところも含めて)効果的に使われていて、全体のイメージとして楽園的な情緒を醸し出すけれど、ただその夢とどう対峙していくか、っていう点でプレイヤーに問いかけるもの。夢はいつまでも続かない、現実に戻れ、って最後に言ったりとか、メッセージ的な部分と、それこそゲーム体験としての"インプレッション"が、俺の中ではよく分からないけどとても強烈に結合して強くひしめいてるんだよね。個別要素に眼を向けることを徹底して否定するから、最後の最後に全体のイメージだけが漠然と映し出されるんだと思う。ある意味ストーリーを放棄して、印象に頼り切ったやり方を、印象主義と呼ぶか投げ遣りと呼ぶかはもうその人任せでいいやというのが俺のクロス論。

porologue: 「夢」が隠された主題というのは、なんというか「失われた並行世界」に思いを馳せるのと同じように、「夢」としての「ゲーム」も、いつかは失われる。だけど、それでも現実は続く(エンディングムービーが示すように)ということかな。アルティマニアにおける加藤さんのインタビューがまさにそれを示唆してるか。

sagipenta: シナリオについてはそんなところだと思う。ゲームの身体性(?)としては、南国ビーチに幼馴染と穏やかな村人に囲まれた楽園世界から、不気味なレーザー光で彩られた古めかしい砦の中に恐る恐る入っていき、そこで綺麗な17歳の少年の身体に移入していた感情が、醜くて獰猛な獣の外見に強制的に移し替えられる違和感と不快感とか。

porologue: その点に関してとと、あと全体的にすごく言いたいことがあって、例えば、たぶんぼくはクロノクロスよりも前にキングダムハーツのハートレス化を通ってしまったから、セルジュのヤマネコ化にそこまで膨大な違和感を受けなかったんだと思う。おそらく発売当時にこれをやっていたら、その印象は確実に変わっていた。

sagipenta: ヤマネコのあれねー、俺12歳だったからマジで泣きそうになったのよー。キングダムハーツ1と似てるところは確かに少なくない気がするなあ

porologue: スクウェアだしね。あとやはりゼノギアスとスタッフがかぶってるせいか演出が凄く似てる

sagipenta: 雄臭い部分は大体ゼノギアスっぽいかも

porologue: ところどころ印象的な部分はあったんだけど、願わくば10代にプレイしたかった。バトルシステムに関してはかなり良かったと感じる。選択と責任と平行世界に関しても、テーマ的にあの時期にここまでやってたのってこの作品くらいだと思う。

sagipenta: バトルねー。突然敵が割り込んでくるのが緊張感あっていいと思う。コンボをリソース管理的に、ゼノギアスよりナラティヴできれいに取り込んでるのも評価できるはず。でも、イーグルアイ使うと紙ゲーになってしまうのが少しお粗末だった。

porologue: そう、敵の行動が絡んでくる分ゼノギアスより複線的だし、敵が弱ってきたらスタミナを全消費して攻撃→エレメントで畳み掛ける、みたいな戦略性もある程度あって、この部分はとても参考にしたいです。バランスは、そもそもRPGである以上まだ明確なバランス取りのデザインがないきがするから、仕方ない気もするかな。このシステムはもう少し洗練された形で、どこかしらでリメイクする価値があると思った

sagipenta: それはいわゆるJRPGの文脈ってことになるのかな?さっき思ったんだけど、ああいう数字を見せてリソース管理させるのって、いわば(判断までの)時間の流れを遅めるものだよね。対してFPSは時間の流れの速さを追求していて、KHはリソース管理をTPSに上手く食い込ませて、JRPGならではのテンポを実現してるって言えない?

sagipenta: FPSのスピード感でプレイしてても、ヤマネコ化、ハートレス化の不気味さを一々噛み締めてるだけの情緒感が生まれるか、かなり怪しい気がする。

porologue: たしかに。おそらく(多くの)JRPGにおける操作感って、FPSとは対称的に身体性とダイレクトに結びつきにくいものだよね。身体性を切り離すことで逆に「ヤマネコ化の不気味さ」みたいな身体性が生じる可能性はあるはず。

sagipenta:どこで繋いでどこで切るか、そこら辺のツボを押さえられればゲーム特有の表現矛盾は回避できるはず。つまり、「インタラクション」が情緒的なものを指しているのか、行為的なものを指してるのか、お互い話が噛み合わないまま制作に入るっていう、ありそうな事態。

porologue:情緒的・行為的という区分は、RPG的な(というと誤解を招きそうだけど)「ヤマネコ化」のようなインタラクティブな情緒感と、FPS的な、身体→ゲーム的身体というダイレクトなインタラクションかな。

sagipenta:インターフェイスによって喚起される身体的な部分を行為的って読んで、ストーリーとかムービーとか、視覚・聴覚的なものを情緒的。まあ、ある種のトロンプルイユだよね、「変身」劇は。俺がやたらダリにお熱なのは、そういう錯視効果に、ダリがある種の身体性を見出していたから興味を持ったからなんだけど。あたかも自分が変質したかのように思ってしまう錯視効果のゲーム版が変身劇で、これはマグリットが描いた目の絵と似てる。これって、手前から見ているようで、あちら側から見ていると錯覚させる手法ってのは見れば分かると思うけど、これのゲーム版みたいな感じだと思うのよね、変身劇って。で、その時流行りの「由緒正しい絵画」っていうのは、こういうギミックに頼らずに、構図とか色使いとか筆致とかで情緒とか感情表出を提示しようとしていたけど、マグリットがこういうのを始めて、ダリはしめしめと乗っかっていってお株を奪ったという。で、こういうギミック的なやつを、ダリは「生理学的・スポーツ的」っていうダリ語で読んでたんだけど、つまり「身体的」っていうわけで、何かを「解釈」「理解」「究明」することではなく、見れば分かっちまうやつをこう呼んでいたと。解釈とか、理解っていうのは一番情緒的な部分の楽しみだけど、それをギミックを使うことで引きずり下ろしてきたというのが、マグリットとダリの第一の仕事だった。で、時は下って、ゲームによって更に身体化されていったというのが俺の中で整合性を持っている考え方。

porologue: それが例えば、ゲームに置き換えるとヤマネコとか、ハートレスにも通じると。

sagipenta: 通じるっていう言い方がどこまでコンセンサスを提供してくれるのか分からないんだけど、たとえば変身劇は、ゲームの中で一番目を引くポイントになるけど、それを全体の中でどう扱ってやればいいのか考える一つのヒントにはなると思う。

porologue: うーん、錯視の部分からどうもコンセンサスが取れてない気がする。理解ではなくギミックが感情移入を誘発するという筋は分かったんだけど。

sagipenta: 変身劇という、ギミックによる盛り上がりが陳腐にならないために、その他の部分で補強を加えなければいけないと思うのが一つ。いつまでも「変身劇」という型を繰り返せば、簡単に飽きられてしまうから、そのオルタナティヴを考えなければいけないというのがもう一つ。この2点を錯視の絵画における、ギミックとその他の技法(構図とか筆致とか)の緊張関係から考えなければいけないなと思いましたと言いたかったです。言えてなかった。いきなりソラがハートレスになっても「ハア?」って感じだから、そこに至るまで何があって、そのギミックが有効に作動したのかということを考えることと、変身劇以外に有効なギミックってなんかないのっていう話が、錯視画を巡る芸術家間の騒動から見えてくるということっす。

porologue: なるほど。たぶんそれって、例えばとてもざっくりとした構図で言えば、なぜ「このシステム」に、この「ストーリー」を乗っける必要があるのか、というように、ゲームデザイン全般にも適用できそうな問題定義に感じた。例えば『四月馬鹿達の宴』で言えば、エンディングの後の「おしまい!」というメッセージを普通に肯定(決定ボタンを押す)すれば終わるけど、そのメッセージに隠された、システムとしての「選択肢」を否定(キャンセルボタンを押す)すればもう一周最初から始まる。それはゲーム内テーマである「没入への欲望とそれへの抵抗」というふたつの方向性を持たせることによって、システムを活用しつつゲームテーマを自己言及しているといったような。

sagipenta: あー、ギミックとしてのシステムか。とりあえずこれは、ギミックっていうそれ単体だと安っぽいものに実体を持たせるべく存在している、対になるものが何かを考えましょうっていう感じで結論すればいいのかな?

porologue: イエス!コンセンサス! これブログにのせよう。

sagipenta: なんのブログ?ポロログ?

porologue: そうだねポロログにのせよう。なんか更新するコンテンツが無くて寂しかった

sagipenta: いいねー。

porologue: なんかレスポンスあればフィードバックにもなるでしょう。

【おしまい】