セラフィックブルーについて

 いまになって漠然と思うのは、「セラフィックブルー」(フリーゲームRPG)は結局、人間として生理的なシステムに順じて生きるにあたって、人間的な感性を完全に放棄することの不可能性を(成功・失敗はどうであれ)描こうとした作品だったんじゃないかな、ということ。
 「あ、ありのまま、いま起こったことを話すぜ!空から美少女が降ってきたんだが、そいつが実は「母親」だった…」という一連の流れからも鑑みることが出来るように、既存の物語のフレームワークを用いつつも悉く変奏するこの作品は、冒頭に書いた「人間は生理的なシステムとしての人間を超えられるか」という命題への挑戦に加え、全体として「古きモノ・既存のモノ」のしがらみを打破しようと試みているように感じる。強引に結びつけるとすれば、空から降ってきた女が皮肉にも母親だったというのは、ある意味でテンプレート的な萌えのメカニズムを「無防備」に期待することに警鐘を鳴らすものでもあると捉えることも出来る。
 その『堕ちてきた母』であるヴェーネだが、(致命的なネタバレになるので経緯は端折るが)彼女は物語の後半においてようやく、物語進行上の主役となる。彼女は義父ジークベルトによって、『救済』のみを目的としたシステムとなるべく教育を受けてきた。人間としてのあらゆる感性を打ち捨させるという、人間を目的完遂のためのシステムと化す教育は、ほぼ成功する。かくしてヴェーネは救済者として世界の救済を目的とし、敵対存在を排除していくことになる。
 敵対存在の中で、全体最適のためには犠牲を辞さない新自由主義国家を髣髴とさせるフェジテにおいて、「法」によって娘を殺されたクルスク家は、ヴェーネの最終的な対立者となる。「遺族会」の思想的ぬるさに憤りを感じた彼/彼女らの共有する、あくまで世帯単位を重要視する内向きの価値観は、上野千鶴子の言うような近代的家族観(『近代家族の成立と終焉』)とほぼイコールだ。クルスク家は「家族が一人殺されるごとにパワーアップする」という、いわゆる「仲間の死に直面し、その精神的バネを利用し力を向上させる」ような少年ジャンプ的な想像力の中で生きている(この部分はゲーム内設定によって上手く隠蔽されている)ことに対してヴェーネは、世帯やコミュニティといった共同体幻想を否定し、徹底的に独立した孤独なる功利主義者として振舞う。パーティメンバー(コミュニティ構成員)をあくまでリソースと見做し、「仲間」ではなく、あくまで利害上の関係としてドライに「協力者(co-worker)」と吐き捨てる様は、明確にクルスク家との対比を意識している。ここで生じているのは、いかにもファンタジー的な「世界の命運を掛けた戦い」でありながら、その構図としては家族(ヴェーネ=アンスバッハ)対家族(クルスク)の「世帯間戦争」というミニマムな構図である、彼らがそれぞれ「家族」に込めた意味は全く違うにしても。
 かくしてクルスク家は二度死ぬ。一度は「法」によって。二度目は「徹底的に効率化された功利主義者」によって。それら規範やシステムによって駆逐される、「あらゆる子どもたちに愛(=救済としての死)を」と語る彼らの言を引くまでもなく、彼らは「情愛」のみを第一義の行動規範とする旧時代の人間(「私は古い人間でね」Seraphicblue.EP42:ジョシュア)であり、現代においてそれは、単なるテロリストとして見做される愚かな所業でしかない。
 このように、物語面において、ヴェーネはミッションの完遂を至上目的として行動する。そういったメンタリティは、バトルシステムにおいても見ることが出来る。「seraphicblue」のバトルシステムは、いくら仲間が戦闘不能になっても、勝利さえすればそれでいい(戦闘後にあらゆるリソースは修復され、戦闘不能の仲間にも経験値が入る、などの処理的な側面の整備が徹底されている)、というコンセプトの元に設計されていて、プレイヤーもそのアーキテクチャに飲み込まれていくことになる。そのように仲間をあくまでリソースのように活用する様は、ラストバトルでは、ヴェーネが保険的蘇生魔法(FFでいうリレイズ)を使い、仲間が死んでは生きかえし、死んでは生きかえしを繰り返すという自転車操業を行う戦闘という形となって極まっている。この勝利のみを目的とする価値観が、システムだけでなくナラティブの面でも徹底されているのが、ゲームデザイナーとしての榊氏の腕前だと思う。
 戦いを終えて、結局、ヴェーネは洗練されたシステマチックな功利主義者(=新自由主義下における『新しき哲人』)になるわけでもなく、戦いの後にレイクやユアンと抱擁を交わし、彼らに命を繋ぎとめられながら、ドラッグに溺れつつも、フリッツと共に生きることを選択し「家族幻想」に半ば回帰してしまう。プレイヤーは存じているだろうが、60時間以上かけてたどり着いたこのゲームのエンディングは、実際かなりグダグダである。乱暴にまとめるなら、メンヘラ女が死にたがったり生きたがったりする様を蛇行的に描写するだけだ。このような、生と死の狭間で往還するヴェーネのたどり着く結果を明確に提示しないという結果を打ち出すエンディングは賛否あるとおもう。だが、私はこのエンディングを肯定の意を持って受け入れたい。
 なぜならば、あらゆる構築性に脱構築性が孕まれる以上、なにごとをも決定的に決定付けることは、不可能なのだから。