日本的RPGの見た夢のひとつ-『seraphicblue』

※この文章は『seraphicblue』のネタばらしを含みます。


プレイヤーに詰め寄る『 seraphicblue 』の魅力

『 seraphicblue 』は、2004年に発表されたRPGツクール2000製のゲームだ。公開当初から50時間を越える長編として話題を集め、2006年にはディレクターズカット版が公開された。今年2014年は、本作の公開から10周年となる。twitter上の #セラブル公開10周年祭 タグでは、いままさにファン主導による10周年記念企画が行われている(5/15 23:30現在)。

wikipedia:Seraphic_Blue
http://ja.wikipedia.org/wiki/Seraphic_Blue

『 seraphicblue 』をプレイしたのは2008年頃だった。難度の高い戦闘に挫折を覚えながらも、強敵に挑戦することのやりがい。そして伏線が複雑に絡み合うシナリオの、凶悪なまでの魅力。これらをモチベーションとし、ゲームを進みつづけていた。エンディングをむかえるころには、自分の中でゲームというジャンルにとどまらず、もっとも衝撃を受けた作品のひとつとなって、以来フリーゲームを集中的にプレイするようになった。およそ在学中の多くの時間はこの作品について考え続けていて、結局論文にまでしてしまった。

・『ゲームが語ること/ゲームを語ることの可能性』
https://docs.google.com/file/d/0BxxUEcuEpiddcWFmdTF2NmlTSmFnd3NqSVlsYWZadw/edit

本作は、いまでは多くのユーザーに楽しまれている。この作品にプレイヤーが感じた魅力とはなんだったのか?
ひとつは物語だろう。『seraphicblue』は、批評的な物語を提供する。シナリオとしてみた場合、表現上・ビジネス上の観点から商業作品では出せない、露悪的で、チャレンジングなものだ。人間の生きている社会、そして人間が生きることについて、徹底的にプレイヤーに詰め寄ってくる。これら物語分析については、本作の主要キャラクターであるヴェーネについて語った2万字の文章を公開しているburningさんがまとめられているので、こちらも読んでほしい。

・「ヴェーネ論」
http://dailyfeeling.net/vene2014.pdf
本作の主要キャラクター「ヴェーネ」について語った2万字の力作


・「クルスク家のテーゼの再考 ―絶望と希望の隙間で―」
http://blog.livedoor.jp/burningday/archives/51699110.html
本作の要となる、クルスク家の思想を読み解く文章


・「堀越二郎とヴェーネ・アンスバッハの辿り着いた地平」
http://seftyburning.tumblr.com/post/56996915759
宮崎駿さんの映画『風立ちぬ』と本作の関連について語る文章


・Seraphic Blueはポストモダニズムセカイ系作品か?
https://note.mu/seftyburning/n/n0cd9c02cabc7
下記の三浦玲一氏の著作などと絡め、本作を読みとく


burningさんとも話すなかでオススメさせていただいたのだが、『seraphicblue』を物語面から読み解くためには、三浦玲一氏の著作『村上春樹ポストモダン・ジャパン: グローバル化の文化と文学 』を参考とすることができるだろう。

amazon:村上春樹とポストモダン・ジャパン: グローバル化の文化と文学


『seraphicblue』がつたえたかったこと

結局、『 seraphicblue 』が伝えたかったことはなんだったのか。
作中では、ことあるごとに、生と死について描かれたり、語られている。とくに、多くは死について描かれているように思える。では、本作は死について描いた作品なのかというと、実はそうではないと感じる。死を描くことによって、一転して生を描こうとしていたのではないか。なぜなら、生きることを考える、ということは、生きることの真逆にある死を見つめ、そこからいかに離れるかを考える、というプロセスだからだ。

それに関して、seraphicblueの動画実況を行っている方の発言がとてもしっくりきたので、ここで引用したい。本作を語る上で、これ以上、言うべき言葉はないと感じている。

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日本的RPGの見た夢のひとつ-『seraphicblue』

『 seraphicblue 』が、ゲームの表現として革新的であったかというと、そうではないと思っている。
たとえば『 NieR Replicant / Gestalt 』のように、ゲームがプレイヤーの爪跡を記録するストレージであることに自覚的ではなく、『 四月馬鹿達の宴 』のように、プレイヤーとキャラクターの関係性について批評的であるという面はない。

それでもなぜ本作が、説得力をもってプレイヤーの印象に残っているのか。それはゲームシステムやレベルデザイン、シナリオ、それら全ての錬度を徹底的に高めることによって、比類ない体験を提供してくれるに他ならないからだと思う。
事業戦略の比喩で語ろう。未知の市場を創出するか、既存の市場で頂点をめざすか?
seraphicblueは、後者を選んだ。日本のRPGという成熟したジャンルの中で、パワーゲームの勝者を目指した。そして実際に、その頂点の一部をつかんだ作品ではないかと思っている。日本的RPGの見た夢のひとつとして、かつてコンシューマRPGの目指していたものを現実とするべくして誕生した結果なのかもしれない。
機会があれば、制作者の天ぷら氏や、Digraの発表でseraphicblueを扱った伊藤憲二さんへのインタビューは、ぜひ行ってみたいと思いつつ、10周年を祝いたいと思う。