セラフィックブルーについて

 いまになって漠然と思うのは、「セラフィックブルー」(フリーゲームRPG)は結局、人間として生理的なシステムに順じて生きるにあたって、人間的な感性を完全に放棄することの不可能性を(成功・失敗はどうであれ)描こうとした作品だったんじゃないかな、ということ。
 「あ、ありのまま、いま起こったことを話すぜ!空から美少女が降ってきたんだが、そいつが実は「母親」だった…」という一連の流れからも鑑みることが出来るように、既存の物語のフレームワークを用いつつも悉く変奏するこの作品は、冒頭に書いた「人間は生理的なシステムとしての人間を超えられるか」という命題への挑戦に加え、全体として「古きモノ・既存のモノ」のしがらみを打破しようと試みているように感じる。強引に結びつけるとすれば、空から降ってきた女が皮肉にも母親だったというのは、ある意味でテンプレート的な萌えのメカニズムを「無防備」に期待することに警鐘を鳴らすものでもあると捉えることも出来る。
 その『堕ちてきた母』であるヴェーネだが、(致命的なネタバレになるので経緯は端折るが)彼女は物語の後半においてようやく、物語進行上の主役となる。彼女は義父ジークベルトによって、『救済』のみを目的としたシステムとなるべく教育を受けてきた。人間としてのあらゆる感性を打ち捨させるという、人間を目的完遂のためのシステムと化す教育は、ほぼ成功する。かくしてヴェーネは救済者として世界の救済を目的とし、敵対存在を排除していくことになる。
 敵対存在の中で、全体最適のためには犠牲を辞さない新自由主義国家を髣髴とさせるフェジテにおいて、「法」によって娘を殺されたクルスク家は、ヴェーネの最終的な対立者となる。「遺族会」の思想的ぬるさに憤りを感じた彼/彼女らの共有する、あくまで世帯単位を重要視する内向きの価値観は、上野千鶴子の言うような近代的家族観(『近代家族の成立と終焉』)とほぼイコールだ。クルスク家は「家族が一人殺されるごとにパワーアップする」という、いわゆる「仲間の死に直面し、その精神的バネを利用し力を向上させる」ような少年ジャンプ的な想像力の中で生きている(この部分はゲーム内設定によって上手く隠蔽されている)ことに対してヴェーネは、世帯やコミュニティといった共同体幻想を否定し、徹底的に独立した孤独なる功利主義者として振舞う。パーティメンバー(コミュニティ構成員)をあくまでリソースと見做し、「仲間」ではなく、あくまで利害上の関係としてドライに「協力者(co-worker)」と吐き捨てる様は、明確にクルスク家との対比を意識している。ここで生じているのは、いかにもファンタジー的な「世界の命運を掛けた戦い」でありながら、その構図としては家族(ヴェーネ=アンスバッハ)対家族(クルスク)の「世帯間戦争」というミニマムな構図である、彼らがそれぞれ「家族」に込めた意味は全く違うにしても。
 かくしてクルスク家は二度死ぬ。一度は「法」によって。二度目は「徹底的に効率化された功利主義者」によって。それら規範やシステムによって駆逐される、「あらゆる子どもたちに愛(=救済としての死)を」と語る彼らの言を引くまでもなく、彼らは「情愛」のみを第一義の行動規範とする旧時代の人間(「私は古い人間でね」Seraphicblue.EP42:ジョシュア)であり、現代においてそれは、単なるテロリストとして見做される愚かな所業でしかない。
 このように、物語面において、ヴェーネはミッションの完遂を至上目的として行動する。そういったメンタリティは、バトルシステムにおいても見ることが出来る。「seraphicblue」のバトルシステムは、いくら仲間が戦闘不能になっても、勝利さえすればそれでいい(戦闘後にあらゆるリソースは修復され、戦闘不能の仲間にも経験値が入る、などの処理的な側面の整備が徹底されている)、というコンセプトの元に設計されていて、プレイヤーもそのアーキテクチャに飲み込まれていくことになる。そのように仲間をあくまでリソースのように活用する様は、ラストバトルでは、ヴェーネが保険的蘇生魔法(FFでいうリレイズ)を使い、仲間が死んでは生きかえし、死んでは生きかえしを繰り返すという自転車操業を行う戦闘という形となって極まっている。この勝利のみを目的とする価値観が、システムだけでなくナラティブの面でも徹底されているのが、ゲームデザイナーとしての榊氏の腕前だと思う。
 戦いを終えて、結局、ヴェーネは洗練されたシステマチックな功利主義者(=新自由主義下における『新しき哲人』)になるわけでもなく、戦いの後にレイクやユアンと抱擁を交わし、彼らに命を繋ぎとめられながら、ドラッグに溺れつつも、フリッツと共に生きることを選択し「家族幻想」に半ば回帰してしまう。プレイヤーは存じているだろうが、60時間以上かけてたどり着いたこのゲームのエンディングは、実際かなりグダグダである。乱暴にまとめるなら、メンヘラ女が死にたがったり生きたがったりする様を蛇行的に描写するだけだ。このような、生と死の狭間で往還するヴェーネのたどり着く結果を明確に提示しないという結果を打ち出すエンディングは賛否あるとおもう。だが、私はこのエンディングを肯定の意を持って受け入れたい。
 なぜならば、あらゆる構築性に脱構築性が孕まれる以上、なにごとをも決定的に決定付けることは、不可能なのだから。

気になった記事など

溜めてあったものをいくつか。





日経ビジネス・「ゲーミフィケーション」でウェブサイトを活性化
http://t.co/TKSpSjP

RPG「Seraphic Blue」が英訳されるらしい・・・
http://jankokutou.blog133.fc2.com/blog-entry-19.html

日本語解析エンジン「なずき」
http://www.nttdata-nazuki.jp/

#21 時間管理される物語について
−featuring 「Kanon」(Key / Win, Dreamcast) 「AIR」(Key / Win)
http://www.kaisoku.com/dotimpact/think_21.html

jesper juul:ゲーム, プレイヤ, ワールド : ゲームたらしめるものの核心を探る
http://www.jesperjuul.net/text/gameplayerworld_jp/

GDC 2011]日本の同人ゲーム作家がGDCで講演を行うという快挙を達成。フリーゲーム洞窟物語」の作者 天谷大輔氏による講演の模様をレポート
http://www.4gamer.net/games/129/G012955/20110305007/

「ゲーマーの後悔」は終わらない
http://wiredvision.jp/news/200710/2007100221.html

スミソニアン博物館が開催する「アート・オブ・ビデオゲーム」に出展される80タイトルが遂に決定!
http://doope.jp/2011/0518459.html

8BITS(映像作品)
http://www.youtube.com/watch?v=bLpkjtWuPs8&feature=youtube_gdata_player

デジタルゲーム(=テレビゲーム・ビデオゲーム等)における物語性について、RPG(ドラゴンクエストセラフィックブルー、等)やサウンドノベル(夜雀憐)、フリーゲームを引き合いに出しての論文素案。2年前くらいに大学で書いたモノです。
拙い部分が多いので補足もつけときます。

:2011/4/10 更新
2011年3月6日に機会を頂き、これを基にしたプレゼンテーション「Videogame as Narrative」を、DiGRA JAPAN(日本デジタルゲーム学会)の若手研究発表会で発表させていただきました。様々な意見を頂き、大変勉強になりました。ありがとうございました。当日の様子はこちらです。

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・Introduction「Videogame as Narrative」 
 
 我々が慣れ親しんでいる「ビデオゲーム」が「物語を語る」ようになってからどれくらいがたっただろう。例えば、世界で始めて作られたビデオゲームは卓球を模して作られ、点と線のみで描かれた「Tennis for Two」という非常にシンプルなビデオゲームであり、物語との関係性は皆無であった。その時代において本来的にビデオゲームとは娯楽であり、芸術とはかけ離れているものだったのだ。しかし、それから年月が立ち、ゲームが「物語を語る」ことを始めた。その典型的な例が「ロールプレイングゲーム」や「サウンドノベル」というジャンルである。今でこそ「ロールプレイングゲーム」や「サウンドノベル」のように、ゲームが物語を語ることは当然のように認知されているが、このように「ゲーム」と「物語」が結びつき、今でもその結びつきが強固に継続していることは奇跡のように思えて仕方が無い。今日、ゲームが「物語を語る」ことそれ自体にいったい意味はあるのだろうか?ゲームが物語を語る以上、そこには他の「物語を語るメディア」と同じように、もしくは、ゲームという媒体特有の表現はあるのだろうか?
 まず、ロールプレイングゲーム(RPG)を参考にして考えてみたい。基本的にRPGとは「物語=ナラティブ」「機能=システム」の2つの要素から成り立っている。RPGにおけるナラティブとは、例えば「勇者が魔王を倒す為に旅をする」といった大きな根幹的な目的から、登場人物間の些細な会話まで含む、ゲームの内部で語られる「物語・言葉」のことである。システムとは物語・絵、以外の「ゲーム性」のことであり、ゲームにおいて様々に数値化されたゲーム内現象全てのことである。この「システム」という要素の例として具体的にどのようなものがあるかを微細に説明することはここでは不可能に近いと思われるので、これ以降の考察において必要性が生じた場合にのみ、順次説明することにとどめておく。とりあえずここでは、ゲームには小説のような物語、漫画のような絵に加えて、ゲーム特有のシステム(このシステムという存在こそ、ゲームが物語表現媒体の特異点として位置付けられる所以である)が付随しているという認識でかまわない。
 さて「物語を語るメディア」には、小説・映画・マンガ…など様々な媒体が存在するが、ゲームを「物語を語るメディア」としてとらえる場合、そこに前述した「システム」が存在する点で明らかに異質である。小説・映画・マンガなどのメディアは、そこにあるテクスト(物語)を読み込むのみであるが、ゲームは、プレイヤーの判断・操作によってゲームのシステムが反応を返し、結果が変動する (ロールプレイングゲームにおいては、戦闘を行う際に合理的な選択を続ければ敵を倒せるが、戦術を誤れば敵との戦いに敗れる)。ゲームにおいてプレイヤーは本質的には受動的だが、しかし、同時に、他の物語表現媒体と比べ僅かばかり主体的で、一握りの「介入可能性」を持ち得ている。「ナラティブ」の他に「システム」が存在する事によって、ゲームとプレイヤーの相互関係性―インタラクションが生まれる。
 青土社の刊行する批評誌であるユリイカRPGの冒険』の中の一節で「他人の役割を演じながら能動的に行動することと、できあいの物語を受動的に受け取ること。この二つの相矛盾するような事象を、一部のコンピュータRPGは、一つの体験として溶けあわせるべくつとめてきた」とあるように、RPGを代表とするデジタルゲームを物語メディアとして解釈する場合の能動性、つまりプレーヤーとシステムのインタラクションは、物語とは相矛盾する異質な存在だ。その相矛盾する「能動性」なるものが物語に干渉し、溶け合い、異変が生じているキメラな物語メディアがゲームなのである。つまり、ゲームが物語メディアとして特異なのは、「ナラティブ」…物語に対し「システム」という存在を挿入し、プレイヤーとゲームのインタラクションが発生することによるからである。あらかじめ全ての筋書きが描かれていてそれを受け取るのみの小説や映画とは異なり、ゲームはプレイヤーが能動的に干渉しない限りは、物語として一切完結し得ない。システムが提供する様々な選択肢、それを自ら介入し選び取るプレイヤー、その結果による(制限的・擬似的ではあるが)分岐可能性。この可能性の幅が、ゲームを特殊なメディア足らしめている。
 システムによるインタラクションの存在からは様々な考察が可能である。ロールプレイングゲームに視点を固定すると、そこにおけるインタラクションとして代表的なものは「移動」と「戦闘」である。この「移動」と「戦闘」はインタラクションを語る上で非常に重要だ。ゲーム愛好家として知られる小説家の宮部みゆきも、ゲームにおける「移動」の特異性について実感しているという。『RPGの冒険』p53において宮部の言を引用した米本一成は「ゲームでは移動する場面において何度も同じ敵を倒していったりするわけで、しかもこれは面白く出来る部分なんだけど、でも小説でそこを繰り返し描写することは困難で、いっきに次の町に行ってたりする。ゲームだと面白いところなのになぜ小説ではできないんだろう」と語っている。さらに興味深いのは、その言を受けた飯田和敏が『ドラゴンクエストⅣ』を例にとり、「町に行くと少しお話がすすんで、また次の町に行けばさらに進む。移動することで物語が進行する。でも、それって文章量にしたらすごく少ない…これは、お話をテキストで読む楽しみとは全く違うんだな…だから『ドラクエ』が楽しいっていうのはどこなのか、っていったら、それはやっぱり移動中なんだろう…」と述べている事だ。
 ここで両者が共に注目しているのは一般的な意味での「物語」ではない。戦闘・移動など、テキストでは決して表現されえない、システム面で不可避的に生じてしまう物語である。ゲームにおいては、インタラクションによってテキスト以外で表される、いわば「システム的物語」が発生しているのだ。それはロールプレイングゲームにおける「移動・バトルシークエンス」のようにシステム面で構築された物語であり、小説やマンガなどの活字的・受動的な物語とは全く異質なものである。しかも2人の会話を見ると分かるように、多くのプレイヤーはシステム的物語に大きな魅力を感じている。こうなるとゲームにおける「物語」の定義すら危うくなってくるように思われるが、だからこそゲーム特有の表現可能性も見えてくる。まとめると、ゲームにおいては物語と物語の間隙にシステム的物語が不可避的に生じ、これはゲームと物語の関係性を語る上で看過できない要素だということである。これは簡単に表すと下記のようになる。


 町A【主人公Zが、山の向こうの町にいる人へ薬を渡すよう頼まれる】…物語①
 ↓
 山【移動・バトルシークエンスなど】…システム的物語A
 ↓
 町B【主人公Zが目的の人に薬を届ける】…物語②


 物語①・②はゲーム内で発生する会話(物語)のイベントで、ともにテキストで表現されるものである。対してシステム的物語Aはテキストでは表現されない移動・戦闘などのインタラクションである。一般的に考えると、ゲームにおいてはテキストに依存する物語に比べてシステム的物語が占める割合は非常に大きい。プレイヤーは、こうして物語とシステム的物語の間を相互に行き交う事になるのだ。システムによって組まれた「戦闘」による、強敵とのギリギリの(システム上での)戦い―キャラクターたちの強さ・戦闘時の戦術選択によっては時にドラマティックな演出を魅せる―すらもある意味で一回性の「物語」として成立してしまう(※補足1)ことに、ゲームの特殊性が見出せるのだ。

・作品論1「seraphicblue:越境するアマチュア・ゲーム/物語・映画・システム」

 デジタルゲームとは基本的に企業単位、大勢で製作して商業的な展開をするものだが、アマチュア・ゲーム(プロのゲームクリエイターではない一介のゲームファンの作る、商業目的ではないゲーム)はそれに比べるとかなり小規模な製作になっている。個人で製作することも多く、そこに小説のような作家性が表出することが有り得る。アマチュア・ゲームは一般流通しているゲームと比較すると、商業的・大衆的な展開を気にせず製作できるので、ナラティブ・システムの奇抜さ・アイディアを追求した先鋭的・前衛的な作品が多々見受けられる。
 「セラフィック・ブルー」というアマチュア・ゲームを引き合いに出そう。「セラフィック・ブルー」はフリーゲーム(無料頒布のアマチュア・ゲーム)である。内容としては世界の救済を目的とした主人公たちが織り成す、終始沈鬱とした雰囲気で進行するロールプレイングゲーム。小規模製作にして総プレイ時間60時間以上、フリーゲームとしては異常なまでの長さである。また外国映画を意識したような語り口や皮肉な言い回しが多く見られ、ゲーム的なシステムだけでなく物語も重視した作品になっている。
 「セラフィック・ブルー」では「クナース・ワース」という小説がキーワードの一つとなっている。「クナース・ワース」とは、とある監獄での物語を綴った「セラフィック・ブルー」内での作中作である。クナース・ワース…「KNAHS・WAHS」、反転させると「SHAW・SHANK」…つまり、映画「ショーシャンクの空に」のパロディである。あらすじを簡単に説明しておくと「ショーシャンクの空に」とは、無実の罪で捕らえられた男が長年の監獄生活の末に脱獄し、自由を手に入れるという作品である。「クナース・ワース」の内容も「ショーシャンクの空に」を模した物となっている。
 「ショーシャンクの空に」では脇役として1人の図書館司書が登場する。監獄の囚人にして図書館司書であったその男は長年の監獄生活からようやく解放されるのだが、その直後にアパートの一室で自殺を図る。監獄生活においては不自由であるものの明確な目的が存在したが、釈放後に彼を待ち受けていたのは苦しみを伴う「自由」だけであった。「不自由」という檻を脱出したところに待ち受けていたのは「自由」というさらに大きな檻であるという皮肉がそこには描かれている。
 「セラフィック・ブルー」は、その図書館司書にスポットを当て、現代的にテーマを再構築した作品だと言える。「ショーシャンクの空に」は自由という「幸福」の達成がテーマであり、「クナース・ワース」として「ショーシャンク」を取り込み再現前化した「セラフィック・ブルー」では、自由という「不幸」を淡々と見つめることそれ自体がテーマなのである。
 エンディングにおける描かれ方は最も対比的だ。「ショーシャンクの空に」では義務に縛られ続けた主人公は最後に自由の名の下に救済されるが、「セラフィック・ブルー」において世界の救済者として育てられ、義務に縛られた戦いを続ける主人公ヴェーネは、むしろ縛られ続ける事を望んでいる。戦いが終われば自分の存在意義が消滅すると実感しているからである。戦場を切り抜けた後に現れる日常という「平坦な戦場」に彼女は耐えることが出来ない。そして最後の場面で描かれるのが、自由の下に苦しむ彼女の姿である。物語は希望と絶望の両方を暗示し、明確な帰着を見ないまま幕を下ろす。「ショーシャンクの空に」のラストシーンでは希望の象徴として晴れ渡っていた空も、「セラフィック・ブルー」ではもはや自由という苦しみの象徴でしかない。
 この「セラフィック・ブルー」とは基本的に一本道の物語である。選択肢によって物語が変化する事は無く、そこに自由度はほとんど存在しない。存在するものは「戦闘」などの高度に洗練されたシステム的物語による時間的引き延ばしだけである。戦闘は非常に難易度の高いものとなっていて、一般流通しているゲームに比べるとテキストの量―それも人物の語り―も非常に多い。物語にロールプレイングゲームの要素が付随しているといっても差し支えないほどに物語が全面的に押し出されている。例えば、あるシーンでは敵との戦いが終わった後、約1時間以上に渡る、ゲームとしては異常なまでの長さの議論が展開される。もはやそこに介入可能性などなく、プレイヤーはただひたすら物語を受け取り、キャラクター同士の議論を見守るだけである。そこだけ抽出すればインタラクションというゲーム性が取り除かれた映像的な物語だ。しかしその他の面では「システム的物語」が歴然と存在することから、やはりこの作品は「ゲーム」としてプレイヤーに消費されている。気を抜けばゲームオーバーを免れない高難易度の戦闘、がむしゃらに難しい謎解きはプレイヤーの能動的思考力を絶対的に必要とし、ゲーム(=物語自体)への積極的介入を要求する。これら「システム的物語」によって生じる「介入しないことの不可能性」と、登場人物たちの長い長い語りによって生じる「物語」に見られるような「介入することの不可能性」…この2要素間での度重なる彷徨・ジレンマという特性を兼ねるものは、ゲームという媒体以外では表現し得なかったのではないか。
 「セラフィック・ブルー」は、映画のような「物語性」とゲーム特有の「システム的物語」両方の深化を追求し、その結果をいわば「介入可能な映画」といった形で打ち出し非常に上手く融合している、ゲーム的表現を洗練した作品の例であるといえる。

・作品論2「夜雀憐:真実の所在/ノベルゲームによる世界断片化」

 ロールプレイングゲームの他に、ゲーム的な物語叙述を可能にするゲームジャンルとして「サウンドノベル」がある。サウンドノベルとは「絵と音が付いた小説」のようなもので、プレイヤーはコントローラで操作して文章を送ることによってのみ物語を進めて行く。物語の途中には様々な選択肢が出現し、その選択によっては物語の結末が変化する事もある。ここにおいてシステム的物語はこの「選択肢」に集約される。前述のロールプレイングゲームに比べれば、システム的物語のウェートが小さいことが多い。特に近年では選択肢の存在しないサウンドノベルも登場している。
 「夜雀憐」というゲームを取り上げる。これは二人の少女と周囲の人物が、時に凄惨に、時に滑稽に「終わらない夜」を繰り返す短編で、12の結末が用意されている。しかしその12のエンディングの内、ほとんどの内容は酷いものである。主体の死によって幕が下りる、ある種正当な「バッド・エンディング」もあるが、それ以外には、少女が意味も無く巨大化したり、唐突に農業に目覚めてしまったり、突如現れた隕石が衝突し世界が滅亡する結末など、「投げっぱなしの下らないネタ」と批判されてもしようのない出来の結末が存在する。
 それらのうち11の結末(結末1〜11)を見終えた後に、実は我々が今まで見てきたもの全ては物語の主体であった二人の少女が構想していた物語の断片であったのだ(結末12)、ということを描写する場面に移る。そこでは二人の少女が物語を作っている。一人の少女が提示する物語と、その結末…「投げっぱなしの下らないネタ」は、もう一人の少女によって悉く批判され、批判された少女はそのたびにまた違う物語を広げていくが、それはやはり我々が今まで見てきたものと同じ物語である。そして、彼女らの空想がひと段落付いて迎える最後のシーンにおいては、実は「二人の少女が物語を空想しているという物語」を一人の女性が空想していた(結末13)、という事が唐突に示されゲームは終わる。まとめると、このようなことになる。
 

 「選択肢」によるインタラクションが存在する通常のゲーム場面において、結末1〜11を目指す。
 ↓
 選択肢を選び、結末1〜11を見終える。(エンディング1〜11)
 ↓
 結末12・二人の少女が1〜11の物語・結末を構成している。(エンディング12)
 ↓
 結末13・女性が12の空想をしている。(エンディング12・最終部分)


 このような「夢オチ・空想オチ」の多重化は、物語表現としては言ってしまえば陳腐かもしれない。しかし、これが小説や漫画ではなく、プレイヤーの介入により繰り返し読み返され、主体的な選択により世界が分岐する(※補足2)サウンドノベルだということが問題を引き起こす。最後の場面を見終わった後、このゲームにおける世界の分岐性・取って付けたようなブラックジョーク的な結末・偽りのエンディングの様相を見てきた我々にとって一抹の疑問が生じる。それは「その女性がそのような物語を空想していたという事実それ自体が、果たして本当に物語の終着点となる一つの真実なのか?ということだ。
 常識や論理から飛躍した多数のナンセンスな結末と、空想の多重化…女性が12を空想している場面13、二人の少女が1〜11の物語を空想している場面12、及び我々が繰り返し物語を読み、同じような場面を経て、そして選択肢を選ぶ事によって数々に分岐する世界を経験する場面1〜11。これらはここにおいて質的に、完全に価値が均一化されている。つまり、1〜13の結末のうち
どれが明確な1つの歴史的真実なのか、実は判断が不可能なのである。ナンセンスな結末が本当の結末だという事を否定する証拠は何処にも無い(もちろん、肯定する証拠も)。ゲームクリア後には設定画面からそれぞれの結末を個別に見ることができるが、それらも全て等質化されている(エンディング1〜12という名称でしかない)。それらのうち真実として鎮座する物語―つまり、歴史的な真実―はただ1つも無く、1〜13の物語はただ並列化されているだけである。
 ノベルゲームにおける繰り返し。この「一回性の欠如」こそがゲーム特有の表現、しいては既存の表現を脱するものとして機能しうるのではないか。一回性を破棄するシステムを挿入する事で、歴史には一つの真実しか存在しないという「本質なるもの」を無化してしまう。「夜雀憐」におけるシステム構造による物語分岐性・世界の多数存在性・及び並列化は、真実の所在すらも葬り去り、しいては現実と非現実(ここにおいて「現実」と「非現実」とは「起こったこと」と「起らなかったこと」という意味合いである)を分別することの不可能性、そして無意味性も突きつける。そこにはもはや始まりや終わり、そして確固たる足の踏み場―1つの歴史的真実―は存在しない。この作品自体が一貫した意味を失い断片化され、入り口も出口も無い円環、ナンセンスと化す。「終わらない夜」は解決されること無く、永遠に終わらないのだ。


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 (※補足1)「RPGの冒険」でも一部言及されていたが、「ゲーム実況動画」を見てみると分かりやすい。RPGのシステムの一部であるバトルシークエンスが、プレイヤー各々のプレイスタイルを媒介にすることにより、一つの物語として消費されている様子が伺える。

 (※補足2)つまり、「夜雀憐」の多重メタ構造によるゲーム内真実の無化は、ノベルゲームにおけるインタラクション=「選択肢の選択」という、ゲーム外のプレイヤーが行った主体的/能動的な現実的取り組みさえも、全て無に帰してしまう。こうしたプレイヤー側の実体験・選択行為の無化も、作品に通底するナンセンス/ニヒリズムをよりいっそう鮮明にしている。



・参考

 「Seraphicblue」http://www2.odn.ne.jp/~caq12510/SeraphicBlue.htm